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第3032話 サザンクロス 投稿日: 2009/09/06(日) 23:17:43 ID:RuOT5HAR
『バトンタッチ』


「長期出張だって?」
サヨックおじさんは不意をつかれて、思わず相手の科白を繰り返しました。

ぼさぼさの長髪で、無精ひげが顔の下半分を覆っています。もう思い出せないくらい
昔に近所の百貨店で買った綿のシャツとジーンズを着ていますが、カジュアルという
より着慣れたものから離れられないだけで、彼はどこでもそのファッションで押し通
す癖がありました。
もう40代になっているけど、肌につやがあり、皺も少ないので、30代そこそこにしか
見えません。
つねに自信がなく、複雑な話になるとすぐにキョドりました。いい歳をして責任のあ
る仕事を任されたことのない男特有の年齢不詳さが彼の特徴でした。

「うん。大分長く、家を留守にすることになる。数ヶ月になるか、1年も2年もかかる
か……。ともかく仕事の都合によるから何ともいえない」
ニホン家の床の間。ジミンパパは力なく、そう答えました。
「だからサヨック、うちには男手がお前しかいなくなる。ウヨはまだ幼いし……。何
かあったら、家族を頼む」
深々と頭を下げられて、サヨックおじさんはこの場から逃げ出したくなるくらい狼狽
しました。
気楽な立場で兄のやり方に文句を言っていればよく、誰にも期待されない部屋住みの
身分からいきなり重責を担わされてしまいました。
ちょっと待ってよ、と思いました。
ボクにそんな大役が務まると本気で思っているのかい? やったことないよ! 失敗
するに決まってるし、そうなったら兄さんはどうするつもりだい? 心の準備だって
……。
いきなり手を握られて、彼はぎょっとしました。
正面に座った兄が、テーブル越しに彼の右手を両掌で包んでいます。兄はひたと彼を
見据え、低い声で訴えました。
「突然の話で驚いていると思う。だが、私にもどうしようもないことなんだ。お前な
らできる。そう信じている。どうしても判らないことがあったら、周囲に相談すると
いい。だから何も心配する必要はない……」
自分に言い聞かせるように語る兄を見つめながら、サヨックおじさんにはすとんと胸
落ちするものがありました。

ああ、兄さんも不安なんだ。
そう思いました。
そして、ボクしか頼れる者がいない――。
サヨックおじさんの腹の底に、重い、頼りがいのあるものが生じました。それは碇の
ように彼をしっかり繋ぎとめ、大樹のように地上に根を張り、空に向かってまっすぐ
枝を伸ばすものでした。

彼はしきりにまばたきをしました。視界がみるみるクリアになり、色彩が鮮やかにな
る感覚がありました。
(やってやろうじゃないか)
と、腹を固めました。

さきほどまでの彼は暗い牢獄から逃げることしか考えない囚人でしたが、今や険しい
山を目前にして闘志を燃やす登山家でした。
「任せてくれ、兄さん」
衝動的に兄の手を握り返し、彼はそう宣言しました。
何があろうと、立派に兄さんの代理を務めてみせるよ。
玄関を出たサヨックおじさんは、身体を伸ばしました。気分爽快です。頼られるとは
意外に心地よく、背すじを正されるものがあることを学びました。人間として一歩成
長できた気がします。

正面の長屋門から、姪と甥が帰ってきました。
「やあ、ニホンちゃん、ウヨくん。今日もいい天気だねえ!」
「あ、おじさん。ただいま」
「ただいま」
姉弟はそろって挨拶をしました。
「うんうん。ところでジミン兄さんが当分留守にすることはキミたちも知ってるね。
でも、心配は要らない。ぜーんぜん、要らないんだよ。その間はボクが保護者になる
から、これから学校とかで困ったことがあったら、何でも相談するように。じゃあね!」

やけにハイテンションに離れの部屋に帰っていくおじさんを見送って、ニホンちゃん
はため息をつきました。
「大丈夫かな? サヨックおじさんはいい人だけど、変わり者で頼りないからなー」
「オレもそう思うけど、任せるしかないんじゃないかな? 本人はやる気満々だし、
他に人がいないのも本当だしさ」
ウヨくんも浮かない顔で答えました。

サヨックおじさんが上手に脱皮できるかどうかに、彼女たちの将来はかかっています。
残暑の空に、ニホンの姉弟は未来が良からんことを願うのでした。

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